神功皇后 第一回

毎日たくさんの方々が御参拝される

宇佐神宮に祀られておられる神々様を

ご存知ですか?

宇佐神宮の御祭神の1人は神功皇后です。

日本武尊の第2子・14代仲哀天皇の皇后で、

15代応神天皇(宇佐神宮の御祭神)の母と

される人物です。

神功皇后の名は、

日本書紀では「気長足姫」

(おきながたらしひめ)、

古事記では「息長帯比売」

(おきながたらしひめ)と記されています。

第9代開花天皇(かいかてんのう)の

曾孫(ひまご)にあたる氣長宿禰王

(おきながすくねのおおきみ)の娘で、

母は朝鮮からの渡来人(一説には新羅王子)

の玄孫(やしゃご)の葛城高顙媛

(かつらきのたかぬかひめ)。

幼少の頃から非常に聡明で叡智にあふれ、

かつ容貌も壮麗な姫であった神功皇后のことを、

父はどこか人間離れしていると感じていたとも

記されています。

また神と交感する能力を持つ巫女的な女性で

あったとされ、

神功皇后についてのエピソードは、

どれも非常に神がかっています。

なかでも、「朝鮮の新羅(しらぎ)を

帰服させよとの神託を受けた」ことに始まる

「三韓征伐伝説」(新羅征討説話)は、

その最たるもので、

急逝した夫の仲哀天皇に代わり、

神功皇后は女将軍として軍を率いて

朝鮮半島に出兵。

見事、新羅'を征し、

百済(くだら)、高句麗(こうくり)の三韓を

帰服させたと伝わります。

このエピソードは伝説の域を出ないものでは

ありますが、

古代日本の歴史を大きく彩る事柄です。

興味深いのは、神功皇后だとされる絵画には、

刀剣や弓矢を持ったお姿がはっきりと

描かれていること。

彼女自身、刀剣や弓矢で戦った女武将だったのでしょうか?

神功皇后の逸話は、主に西日本各地の神社を

中心に数多く伝承されていますが、

その人物像を具体的に知ることができるのは、

古代日本の二大歴史書とされる

「古事記」(こじき:712年成立)と

「日本書紀」(にほんしょき:720年成立)

です。

皇后という立場にありながら、

神功皇后を一躍、時の人としたのは、 

海の向こうの異国・新羅への出兵を行ない、

朝鮮半島の広い地域を服属下においた三韓征伐に

よるところです。

三韓とは、当時、朝鮮半島にあった

新羅・高句麗・百済の3国のこととも

言われます。

実はこの三韓征伐、

天皇を長とする当時の中央組織大和朝廷に

よって計画されたものではありません。

もともとは神功皇后の夫・仲哀天皇が、

大和朝廷に抵抗する九州の熊襲(くまそ)を

討伐するため、

儺県(ながあがた=今の福岡市博多)の

香椎宮(かしいぐう)を訪れたことに始まります。

神と交感する能力を持っていた神功皇后は、

「熊襲より朝鮮の新羅を帰服させよ」との

神託を受けます。

日本書紀によれば、神託は次のようなものです。

「熊襲は荒れてやせた地である。

どうして兵を挙げて討つ価値があろう。

この国よりも優れた、

まばゆいばかりの宝であふれた国がある。

その名は、新羅国という。

もし、私をよく祀ってもらえるならば、

刀を血で汚すことなく、

その国を必ず帰服させることができるだろう。

そして熊襲もまた、服属するであろう」

しかし、仲哀天皇は、これを疑います。

「先代の天皇達は、天つ神と国つ神、

ことごとく天神地祇

(てんじんちぎ=すべての神々)を

お祀りしてきている。

どうしてまだ残っている神がおられるものか」と

そして、高い丘の上に登り、

遥か大海を望みますが、

そのような国は見えず、

「あまねく見まわしても海だけがあり、

西に国など見えない」と信じなかったのです。

〜続く〜

(神功皇后 第一回)

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