神功皇后が皇位に就いた記述はないものの、
先に紹介したように天皇に準じた扱いが
されていることから、
応神天皇が即位するまでの神功皇后は、
平安前期に職名として登場する「摂政」
(君主に代わって政治を執り行なうこと)と
同じような立場であったと考えられています。
そして何と、その摂政としての在任期間は、
100歳で亡くなるまでの69年間にも
及んでいます。
実は、神功皇后は、
明治期に再び大きな脚光を浴びるのですが、
ご存知でしょうか。
1881年(明治14年)に日本で本格的な
肖像入りの紙幣が登場した際、
それに使われた最初の人物になりました。
古事記や日本書紀において、かなり史実性が高い
記載がされていることからも実在性の分岐点と
される応神天皇の時代は、
農地の耕作を目覚ましく進めた鉄製の農具や
武器が普及したことが考古学的にも
確認されています。
そしてこれは、多くの渡来人が来日し、
大陸の優れた文物や技術が導入されたからだと。
百済から渡来した学者・阿直岐(あちき)は、
駿馬と太刀をもたらし、
同じく学者の王仁(わに)により
「論語」(ろんご=中国の儒教の根本文献)や
「千字文」(せんじもん=中国・六朝時代の教科
書)がもたらされました。
さらには、酒造りや漬物の発酵技術者も来日し、
日本の社会に技術革新を引き起こしました。
神功皇后の三韓征伐は、日本に優れた
発酵技術をもたらした元となり
日本人の食に革命をもたらしました。
その神功皇后が祀られる宇佐神宮の
お膝元で「発酵工房 豆麦房」が開業出来たのも
神功皇后の御神託かもしれません。
〜終わり〜
0コメント